北大路魯山人について

希代の美食家のイメージが強い北大路魯山人さんですが、晩年「家で食べる食事が一番」とおっしゃっていたと聞くと、美食というのは「美味しいものを食べるのではない、美味しく食べるのだ」という食の地平に至るまでのプロセスであったのではないでしょうか。魯山人さんは庶民的な感覚を持ちながら「食」「藝」「生活」の分野で活動されていたと思います。

海外の藝術家とも交流が深く、パブロ・ピカソとも親しく交流していました。

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北大路魯山人

日本各地で暮らし、その地の食を愛し、活動をおこなっていた魯山人。一方で、当時、数多くの国内外の財界人、藝術家、料理人、地域の人々と対峙してきた魯山人。魯山人は1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催されたことや、財団にも多くの陶器を寄贈したこともあり、”きもの魯山人”の流れの暖簾等もロックフェラー財団へも贈られています。
もちろんすべてに活動や人物性が受け入れられたわけはないでしょう。反感も買ったと言われています。人間国宝受託も固辞しています。
歴史を考える上でこの“もし”という言葉は大変活用するには難しいものです。また先人の考え方を今の時代に引きもどすことがすべて良いとは限らないこともあります。
しかし、この日本の歴史、伝統、文化の再認識・再発見、そして継承と再創造を軸に生活の中に取り戻すことができるように活動のためにはこの“もし”は必要なのではないでしょうか、と私たちは考えました。

きもの魯山人

北大路魯山人の死後、残された長女和子さん一家を精神的、経済的に支え続けていたのが、西陣で着物や帯の製造販売をおなっていた魯山人倶楽部創設者の松岡淑郎氏でした。その松岡氏が和子さんの了解のもと「きもの魯山人」ブランドを立ち上げました。その後、松岡氏は和子さんの了解のもとに魯山人倶楽部も立ち上げます。
松岡氏の死後、「きもの魯山人」は松岡氏のご子息が。「魯山人倶楽部」は取締役であった野渕幸作が代表取締役に就任し、「京都魯山人倶楽部」と改称し現在に至っています。

略歴

1883年(明治16年)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。生活は貧しく、父親は魯山人が生まれる前に自殺し、母親も失踪したため親戚の家に引き取られたが、その後親戚宅をたらい回しにされる。農家に養子にも出されたが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となる。10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業し、本人は画家になるための学校に行きたかったが、家業を継がせるつもりだった養父母は猛反対にあい、京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出された。

奉公を終えたあと、書家になることを志して1903年(明治36年)に上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞した。書家魯山人が始まる。2年後の1905年(明治38年)。町書家・岡本可亭の内弟子となる、1908年(明治41年)には中国北部を旅行、書道や篆刻を学んだ。その後、朝鮮総督府に書記として勤めた。

著作

  • 『常用漢字三體習字帖』五月書房 | 1922年、改版1977年、1980年、1996年
  • 『魯山人作瓷印譜磁印鈕影』五月書房 | 1933年、改版1980年
  • 『古染付百品集』五月書房 | 1978年
  • 『春夏秋冬料理王国』文化出版局 | 1960年。改題改版『魯山人の料理王国』1980年
  • 『北大路魯山人作品集』文化出版局 | 1972年
  • 『栖鳳印存』五月書房 | 1981年